SNSでアウトプット

本や偉人の方のYouTubeで学んだことをブログにまとめたり、自分の人生の夢や目標について書いていきます。

『嫌われる勇気』を読んでみた(2)

今回の記事では、前回に引き続き『嫌われる勇気』について紹介していきます。本記事の内容は、承認欲求を否定するうえで、押さえておくべき「課題の分離」について。

 

「課題の分離」とは何か?

たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。つまり、授業は聞かず、宿題はやらず、教科書すら学校に置いてくる子供のことである。

ここで、もし、あなたが親だったらどうするだろうか?通常の場合、注意してあらゆる手を尽くして勉強させるでしょう。

しかし、強権的な手法で勉強させられた結果、勉強が好きになった人は少ないと思います。

 

ここからアドラー心理学の基本的なスタンスがどういうものか話していきましょう。

たとえば、目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。

 

子どもが勉強するかしないか、あるいは友達と遊びに行くか行かないか。本来これは「子どもの課題」です。

この課題に対して、親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為のこと

これでは衝突を避けることはできないでしょう。

 

われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある。そして、他者の課題には踏み込まない

 

なぜなら、あらゆる人間関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こる。

 

そこで、誰の課題かを見分ける方法はあるのか?

それは「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を問うことです。

たとえば、もしも子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末は、授業についていけなくなる。また、希望の学校に行けないなど最終的に引き受ける。これらは親が引き受けることではない。

一般的には、親はそんな事態にならないように「勉強しなさい」と言ってしまう。たしかに、世の親たちは「あなたのためを思って」という。

しかし、親たちは明らかに自分の目的(世間体、見栄、支配欲)を満たすためで、「子どものため」ではなく、「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ子どもは反発する。

 

ここで、子ども勉強しなかったとしても放置するのか?

放置するわけではなく、放任主義を推奨するものでもない。放任主義とは、たとえば、子どもが何しているのか知らない、知ろうとしない態度のことである。アドラー心理学では、そうではなく、子どもが何をしているか知った上で見守るのです。

例として、勉強について言えば、それが本人の課題であると伝え、もし勉強したいと言えば、いつでも援助できる準備をしておく。けれども子どもの課題に土足で踏み込むことはしない、頼まれもしないのに口出ししてはいけない

 

昔のことわざで以下のようなものがある。

「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることは出来ない」

f:id:bokuhabit:20181211144249j:image